好きです、札幌。

札幌を紹介するためのブログではありません・・・。

どこまでを言うべきなのか。

 

私は、日本生まれ日本育ち日本国籍だが4分の1だけ

ある外国の血が入っている。

 

見た目からは全くわからない。

 

でも、私にとってはそれは私のアイデンティティの一つで、

自分を構成する様々な要素に影響していると思っている。

 

誰かに自分について語るとき、

自分がクォーターだということはわざわざ言わない。

見た目でわからないし、クォーターだからといって、

自分の考え方や色々な価値観が一般から大きくずれているとも思っていないので、

私としてはわざわざ関係も浅い人に「言う必要」のないことだと認識している。

 

親の出身地をわざわざ友人に言わない、というのとまったく同じ感覚だ。

 

今付き合っている彼にはもちろんそれを話している。

私が育ってきた環境で触れてきた文化には、少なくとも外国のものがあって、

彼の育ってきた文化と違いを感じる場面がいくつかあったから

自然とその話もした。

 

彼は、すんなりそれを受け入れてくれて、

私の特徴の一つとして、その部分も愛してくれていると思う。

 

でも、どうやら彼のお母さんは違うらしい。

会ったこともないが、彼から話だけを聞いて、

あまり私たちの交際について賛成をしていない、という話を

昨日彼から初めて聞いた。

 

それを聞いたとき、正直「ショック」ではなかった。

そういう反応を示す人が一定数いることも知識として理解していたし、

息子を案じる母の気持ちとしても十分理解できるからだ。

きっと、会ってもっと知ってもらえれば、理解されるだろう、と信じている。

 

ただ、そのなかで彼が母親と私との間で葛藤していることが一番ショックだった。

自分の存在で彼を悩ませていたことに気づかなった。

 

そのとき、瞬間で考えたことは

「あぁ自分がクォーターだと言わなきゃよかったなぁ」ということだった。

言わなきゃわからなかっただろうし、めんどくさいことにならなかっただろう、と。

 

でも、それが正しいことなのか?間違っていることなのか?

そのジャッジは私にはできない。

 

正義の観点から言うと、間違っていると思う。

これは差別の一端で、差別を受け入れていることになるから。

 

主観で言うと、私にとって私がクォーターかどうかは、

私が一番どうでもいいことだと思っている。

問題になることでもないと思っている。

だから、それを公表しようと隠そうと、どっちでもいい。

 

そんな感覚なのだ。

 

むずかしいな。